子どものいる家庭なら、教育環境を考えるのは当然のことです。
我が家にも二人の子どもがいますので、子どもたちの将来についてはかなり真剣に考えています。
まずは、この記事書いているわたしのことについてお話しします。
わたしは横浜出身、中学で国立の中学校に行きました。
大学では教職をとり、大学時代のアルバイトはいくつかの塾の講師を掛け持ちしていました。
当時は学校の英語の先生になろうと思っていて、日本と外国の教育制度の違いを研究するために大学院に進むことも考えていました。
ところが、教育実習に行って方向転換。
それから就職活動をして、特許翻訳の仕事に就きました。
数年後、思い立って国家公務員試験を受験して国土交通省に入省しました。
同省では、EPAなどの経済連携交渉や日本企業の海外進出支援などにたずさわりましたが
子どもが生まれたのをきっかけに一度、小豆島に行き、縁あって天草に移住したという経歴を持っています。
なぜ、天草にやって来ることになったのかについてはこちらに詳しく書きました。
都会なら、わたしのような人は決してめずらしい存在ではありません。
ところが天草では状況が異なります。
天草で大学に進学したい人は必ず、地域の外に出ることになります。
多くの人はそのまま外の仕事に就くため、地域にいる大学出の人というのは公務員や会社経営者など、限られた職種の人たちです。
そういう環境にいるともともと教育について関心が高かったことも手伝って、教育の意味を考えることが多くなります。
さて、タイトルに対する答えについては
「教育」をどんなふうに考えるかによって、答えは大きく違うと思っています。
学校での教育を教育と考えるなら、たしかに天草は不利です。
天草にあるのは高校までなので、進学したければ外に出ることが必要だからです。
地理的な距離があるので、学校選びという面では不利にはたらきます。
一方で、普段の生活の中での教育を考えた場合、天草は都会よりも有利なことがあります。
それは、地域との関わりを感じながら子育てできる環境があるということです。
わたしの考える教育の最終的なゴールとは
自分の人生を自分で考えて、選びとっていける人材にすることだと思っています。
学校卒業までに、精神的にも経済的にも親がいなくても困らない状態になってもらうことです。
それは学歴とか、いい仕事に就くとかそういうことでありません。
ただし、手段として知識が必要になる場面があるので、結果として学歴がついてくることもあるでしょう。
それを小難しい表現にするなら、文部科学省の言っている「生きる力」になるのかもしれません。
生きる力とはどんなものなのか。
ここで、文科省の定義をみてみましょう。
文科省の公開している資料によると、生きる力は学校、家庭、地域など、社会全体で育むものとされています。
「ゆとり」か「知識」かのどちらかではなく、新しく次の目標を掲げるそうです。
- 能力の伸長、創造性、職業との関連を重視
- 公共の精神、社会の形成に参画する態度
- 生命や自然の尊重、環境の保全
- 伝統と文化の尊重、それらをはぐくんで きた我が国と郷土を愛し、他国を尊重、 国際社会の平和と発展に寄与
資料には、日本の子どもは基礎的な学力はあるものの、それを実生活に活かす力に乏しい。
という趣旨のことが書かれています。
そこに算数の応用問題が載っているのはあくまでテストを解けるかどうかで判断するの?という疑問がありますが、大枠についてはわたしもこれまで自分が見聞きしてきたことを通じて同じように感じています。
生きる力に育むためのポイントは子どもの人格形成期と、それ以降です。
特に重要なのは、小学校に入る前くらいまでの人格形成期。
そこでおおよその、その子の価値観が決まります。
どんな価値観を持っているかは、その後の行動に大きな影響を及ぼします。
価値観とは「常識」と言い替えることができるかもしれません。
たとえば、食事について。
我が家の子どもはなんでも食べます。
和食、中華、フレンチ、イタリアン、エスニック料理。
それは赤ちゃんのときから、子ども扱いして子ども用の食事を作ってこなかったからです。
もちろん好き嫌いはあるものの「食べたことがない」という理由で食べないことはありません。
一度は食べたことがあって、その上で嫌いだと判断しているわけです。
経験したことがなくてもやってみる気持ち。それって、とても重要なことだと思います。
なぜなら、人は基本的に経験したことがないもの、分からないものにはチャレンジしないからです。
たかが食べるもの、と考えてしまうこともできますが食べることは、生き物の根源的な欲求です。
その部分で、受け入れることのできる器が広い方が自分の知らない部分に対してもオープンだと思います。
おいしいものを食べると、それがどうやって出来ているのか知りたくなるのではないでしょうか。
我が家の子どもたちはできるかどうかは関係なく、自分で料理したがります。
食材をじっくり観察しているので、畑でとれたばかりのものとスーパーで買ってきたものの違いを見分けることもできます。
もう1つ、新しいものにチャレンジしてみるときに必要なものは自己肯定感です。
自己肯定感とは、ありのままの自分に価値を感じられること。
自己肯定感は、人格形成期にどんな風に親や周りの大人と接してきたかによって大きく変わるといいます。
都会で共働きをしていると、精神的に余裕がない状態で子どもと接することも多くなるのではないでしょうか。
子育て世代こそ、田舎の方が向いている理由についてはこちらに書きました。
今のお母さんは頑張りすぎです。
仕事と家事といろんな方向に頑張らなくてはならないので、よほど人間的に出来た人でなければ大らかな気持ちで子どもに向き合うことは難しいと思います。
「怒りたくないのに、また怒ってしまった」
と自己嫌悪を感じている人も多いかもしれません。
お父さんも朝早くから夜遅くまで働いている家庭なら、子どもと接する時間は少ないはずです。
その点、田舎なら夜遅くまで残業するところは少ないですから、家族そろってご飯を食べることができる日は多いです。
子どものことで何か心配なことがあったときは、夫婦で話し合う時間を持つことができます。
いろんな行事がありますから、親以外の大人とも話をする機会がたくさんあります。
地域や自然とのつながりを感じながら、気持ちにも時間にも余裕を持って子育てすることができるのです。
人格形成期にどんな経験をさせるかが、その後の子どもの成長に大きく影響するとわたしは信じています。
そうはいっても、田舎にないものはどうする?という疑問があるかもしれません。
文化的な施設、天草なら複合映画館、美術館、博物館などはありません。
習い事をさせたいのに、あまり選択肢がないと感じることもあるでしょう。
たしかにそうしたものはあればいいものではあります。
しかし、それは教育の最終的なゴールを達成するために必須のものでしょうか。
そういうものを経験させたければ生活のベースを地方におきつつ、旅行で行けばいいのです。
街に住んでいても、よほど好きな人以外はそうしたところに行くのは、年に数回でしょう。
だったら、飛行機や新幹線に乗る経験とセットで街に行けばよいと思います。
我が家は、毎年夏は4日ほど家族旅行をすると決めました。
東京、北海道、沖縄を交代で行こうと思っています。
一昨年は東京、去年は北海道に行きましたので今年は沖縄です。
福岡までなら数カ月に一度のペースで行きます。
こんな偉そうなことを言って、実際どうなのか。
正直なところ、我が家の子どもたちはまだ小さいので結果は出ていません。
でも、もともと教育とは時間のかかるもの。
結果が分からないとやらない、という姿勢ではなにをやるにも遅いです。
子どもたちの様子を見ている限り、今のところ田舎と都会をハイブリッドするという考え方は間違ってないと思います。
子どもの教育を含めた環境を考える上で大切なのは、結局はどんな暮らし方をしたいかという話になります。
まずはそこをしっかりと固めることが大切です。
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もっと詳しく知りたい人は天草に遊びに来てくださいね!